第47回宗議会報告

会期 2007 / 5 / 31 2007 / 6 / 12

  宗門を開く会  

漸く認めた人事権の乱用!

2005331日付で発令された、当時の教学研究所長である玉光順正氏に対する「役務を免ずる」(懲戒免職に相当)の人事行為が「宗務役員分限規程」及び「宗務役員懲戒規程」に違反した人事行為であること、そしてそれが著しく個人の名誉を毀損することを、弁護士からの指摘も受けながら、2年以上にわたって追求してきましたが、それらの結果をふまえたうえで、このたびの議会において、木全議員は以下の3点について質問をいたしました。

(木全和博議員の質問概要)

1,「役務を免ずる」という辞令から「役務を解く」もしくは「願いにより役務を免ずる」という辞令に訂正する意志があるか否か。

2,本件人事について遺憾の意を表明する意志があるか否か。

3,今回の人事行為を宗務の前例として認めるか否か。

それに対し、熊谷宗務総長は、初めて、最終日の本会議で、次のような補足答弁を行いました。

(宗務総長の補足答弁の概要)

本件については、「宗務役員分限規程」及び「宗務役員懲戒規程」に基づいて、退職手続きが行われねばならないところ、事務当局からの十分な説明が行われなかったため瑕疵(法令違反)が生じた。

よって、それらの整合性を図るため、「願により役務を免ずる」と改めることとした。

 ついては、本件を「今後、宗務の前例とはしない」という方針である。

審問院も問われることに!

更に、この問題は先に200585日に戸次公正氏、安西賢二氏、藤井秀昭氏、楯泰也氏、菱木政晴氏、濱田博徳氏、上岸了氏等によって審問院へ違法行為である旨を申告されていましたが、審問院は20051015日付で、違法行為には当たらないとの判定を下しました。               

遺憾の意の表明がなかったことだけは残念ですが、このたびの熊谷宗務総長の3年越しの違法行為を認めた事実は、前述の審問院の判定が、全く政治的な不当な判定であったことを露呈したものであります。

 

審問院長並びに監察室監事の免職決議案を提案!(大澤秀麿議員)

                

大澤議員は昨年の常会において、長久寺参務の『大分合同新聞』誌上における「前住職」との名のりについて質問をいたしましたが、なんら理由について納得できる答弁がなかった為、宗務役員懲戒規程第二条第二項「職務上であると否とを問わず宗務役員の品位を傷つけ、若しくは信用を失い、又は宗門に迷惑を及ぼすような行為があったとき」に該当するとして、あえて審問院に役職詐称として申告しました。

その結果審問院監察室から「不提訴」通知を受けました。結果については審問院の判断ですので受け入れざるを得ないものですが、「不提訴」通知に記載されていた判断の理由が「作為的かつ利益不利益に該当しないので非違行為には当たらない」というそっけないもので、大澤議員が求めた、「住職であるものがなぜ前住職と名のらなければならなかったのか」という理由には一言も触れていません。

その為、審問院監察室に公開質問状と言う形で理由の明記を要請致しましたが、その返答は「既に監事の合議によって決定したものであるから答える必要はない」というものでありました。

 しかし、なぜ住職たるものが前住職と名のったのかまた名のらなければならなかったのかという理由を明らかにしなければ、作為的でなく利益不利益に当るか否かは明確になりません。しかし、その点についての監察室の回答はありません。

審問条例第6条第2項「不提訴と決定した場合、監察室は、申告者にその理由を記載した文書を送付し」とあり、理由を明確にしなければならないのであり「作為的利益不利益に当らない」ではすまないことは明確であります。これは審問条例違反と受け取れる行為であり、また監察室で決めたことだから答える必要はないと言う行為は、「お上の言うことには文句言うな」というまさしく「何人の専横専断によらない」とする宗憲前文に反する愚行であるといわざるを得ません。

教団は紛争を乗り越え、直道会・同朋教団確立同志会そして真宗興法議員団を経て先達の苦渋の努力により宗憲改正にいたり、「この宗門の運営は、何人の専横専断をも許さず、あまねく同朋の公議公論に基づいて行う。」としてあくまで宗門法規に立つことを明確にしてきました。

その精神を司法そのものが犯そうとしている行為を見逃すことは出来ないので、ここに審問院監察室監事三氏の免職の決議案を提出しました。

また、そのことに対し審問院を統括する審問院長にも要請をしましたが、理由についての返答がないので、同じく、審問院長の免職決議案を提案しましたが、少数否決となりました。

                      

    (玉光順正議員)

はじめに ―非常事態の宗門―

私たちは昨年、開かれた真宗大谷派宗門を願って「宗門を開く会」を結成いたしました。

しかし昨年度常会では、残念ながら願いとは裏腹な結果となり、宗門内外の心ある人々に深い失望を与えてしまいました。私たちはそのことを深く心に刻んで本年の常会に臨みたいと考えています。

 さて、先日の総長の所信表明演説を聞かせていただき、私は残念ながら昨年以上に落胆の感を深くしています。おそらくそれは私たちだけではなく、与党興法議員団の賢明なる議員諸氏におかれましても、やっぱりそんなものかと感じられたのではないでしょうか。にもかかわらず、この内局の行く末をただいたずらに見守るだけで、何かを待っているかのように、口を閉ざし手も足も出さない異常な状態が日ごとに色濃くなっていると感じられるのはどういうことなのでしょうか。改めて、私たちが宗門を開くと名のった意味の大事さを痛感しつつ、いくつかの質問と提案をさせていただきたく思います。(一部略) 

 

宗門の存在意義 ―開かれてこそ宗門―

さて、私たちが何故宗門を開くということにこだわるのか。それは、現代社会において真宗大谷派なる宗門の存在意義はどこにあるのかということを問い続けているということでもあります。それは私たち議員の宗門内外に対しての責任の最低の条件の一つでもあるのではないでしょうか。

 先日の所信表明演説を読ませていただいて、改めて当日以上に感じたことがあります。それは、あの演説の中には宗門外の人々に対する呼びかけは全くありません。のみならず、昨年私たちは、750回御遠忌に対する取り組みが内向きだと指摘しましたが、その内向きがいよいよ嵩じてといいますか、与党興法議員団向けといいますか、いやもっといえば自分たちを守るために賛成する人々向けになっているといえば言いすぎでしょうか。そこには、数珠を持たない人々は勿論ですが、野党議員や、参議会議員や、門信徒大衆が見えていないとしか言えません。

 それは決して宗門を守ること、法義相読、愛山護法等というスローガンとは全く逆なことになっているといわねばなりません。

 守ることと開くこととの違い、何故こうなってしまったのか、いや、これでも宗門内外の人々に呼びかけていると考えておられるのか、お答えください。

 宗門を内外に開くためにもう一つお尋ねします。先日、総長は所信表明の最後で憲法問題について、「宗議会での決議を重く受け止め平和憲法の精神が踏みにじられることのないよう、ここに強く訴えるものであります」と言われましたが、一体誰に訴えられたのでありましょうか。議場でいくら訴えても極端に言えば実質上はあまり意味がないと言っていいのではないでしょうか。むしろ、先日国会議員との懇談会があったそうですが、その時、憲法問題について、平和憲法の精神が踏みにじられることのないようにと訴えをされたのでしょうか。詳しくお知らせください。

日本における良心として ―世間と親鸞―

次に、昨年急逝された歴史学者、元一橋大学学長の阿部謹也さんは、ヨーロッパと日本との違いの中で「世間」ということに注目され、20数年来日本における「世間」ということの特殊性を指摘されつづけられました。日本には「世間」はあるが個人はいないのだと。

 少し付け加えますと、このことは私たちの真宗同朋会運動の最初のスローガン「家の宗教から個の自覚へ」という「個の自覚」がなかなか伝わらなかったということとも関係しています。

 阿部さんは、ただその「世間」の真っ只中でその「世間」を超えようとし、そして実際超えた人として親鸞を紹介しておられます。20数年前からそのことを提起されていたにもかかわらず、私たちの側の力不足で阿部さんとの対話が始まったのはここ数年のことでありました。これからというところで阿部さんは亡くなってしまわれました。本当に残念なことです。最後の著書『近代化と世間』の結語の中で次のように述べられています。

 「本書を終えるにあたって『世間』の中での生き方について考えてみたい。私が20年以上前からこの問題に関わってきた中で、日本でもっとも深く『世間』の問題に関わった人物として親鸞を挙げなければならない。(中略)ここで私はヨーロッパの12世紀の哲学者サン・ヴィクトールのフーゴーのことを思い出さざるをえない。彼は『ディダスカリコン』のなかで故郷について次のように述べている。

 『故郷が甘美だと思うものはいまだ脆弱なものに過ぎない。どこに行っても故郷と同じだと思うものはすでに力強い人である。しかし全世界が流謫の地であると思うものこそ完全な人である』

 フーゴーはキリスト教徒であるから彼の答はわかっている。私はこの答を親鸞の中に見つけようとした。つまり『世間』以外に生きる場はない。しかし、ある一定の理解に達したものが何人か集まって流謫の地としての『世間』のなかでも、流謫の人として振る舞うことである。そして世界の危機を招いている近代科学に対して民衆の立場から抵抗し、新しい学問を打ち立てることである。

 自己の変革なくして社会の改革などありえない。したがってまず自己の改革である」

 まさにこれは、流罪の人、非僧非俗の親鸞の生き様からものごとを考えることを提起されています。これは私たちが何故流罪800年の法要を勤めなければならないのか。その促しであるともいえるでしょう。私たち有志もその促しを受け本年29日法難800年ナムナム大集会を多くの宗議会議員を始め800人を超える宗門内外の人々と共に開催したことです。

 さて、そこでお尋ねします。御流罪800年法要を高田教区と連携のもとに勤められましたが、何故親鸞は流罪になったのでしょうか。聞くところでは、流罪の親鸞は真宗本廟の親鸞ではない等という発言があったように伺っていますが、そのことを検討されたのでしょうか。

 ところで、実はそのこと「世間の中で流謫の人として振る舞う」ことをこそ清沢満之は「大谷派なる宗教的精神」といったわけです。それは、人々にいわば「日本の良心がそこに確かにある」ということを見えるものとして示すことであります。

 悪世というよりも濁世といわねばならない今日、まさにその様な時代社会の真っ只中で、真宗大谷派、あそこには数は少なくても確かに真実が生きて働いている。あそこでは道理や真理が力を持っているのだということを、様々な形で人々に示すこと、そのことだけで、濁世の今日、心ある多くの人々にとっても、とても大きな力になることなのではないでしょうか。     (一部略)

              

教学と行政 ―真宗教学の矮小化―

700回御遠忌の後、真宗同朋会運動が提起され、いわゆる教団問題も含めて、様々な問題もはらみながらも50年近い命脈を保ってきた理由の最大のものとして、行政や立法機関と教学との緊張関係があったといっていいでしょう。

私のいた3年間を含めてここ10数年は充分とはいえませんが、同朋会運動を支えてきたのは主として教学研究所であり、教学研究所を通して生まれてきた在野にありながら教学教化ということを真面目に考えようとしてきた多くの人々であったのではないでしょうか。そして同時にその人たちがいたからこそ、再三の教団問題の危機ものりこえることができたのであります。

そのことはかって教学研究所に在席されていた総長のよくご存知のことであるはずです。単なる学問沙汰ではない教学教化を担う人々を生み出しつづけようとしてきたのがこれまでの教学研究所であったのではないでしょうか。伝道講究所、伝道研修会で生み出された人々が教団をにない、また特別伝道、教師修練や住職修習、そして推進員研修会、推進員養成講座等々を担ってきたのであります。

 行政と教学との関係はくれぐれも慎重に考えるべきだと思いますが、これまでの教学研究所そして今後の教学研究所をいかがお考えでしょうか。

 少し付け加えますが、現在の真宗教学と呼ばれているものは余りにも矮小化されているのではないでしょうか。私たちの持っている世間、それは真宗大谷派門徒集団のそれもごく一部、その人々に対してしか間に合わない教学、それ以外の他者に働きかけることのできない自信を失ったかのような教学、或いは真宗門徒以外の人たちに働きかけることのないことが真宗の値打ちのある社会参加といわれるような教学。これでは宗派声明など出せないのは当然と言えるでしょう。

ヒューマニズムということが時々否定的に取り上げられますが、今のごく一部の人にしか通用しない、わかった人にしか通用しない、わかった人のみを対象としたかのような、いわば知的趣味であるかのような教学はヒューマニズムにもさえならないといわねばならないでしょう。

「世の中安穏なれ 仏法ひろまれ」と言われた親鸞聖人の仏法は、実際に法難に遇った、弾圧をこうむった仏法であって、世間と妥協することが安穏だということではないのでしょう。

また、国家は勿論、宗務行政さえ批判できない教学、清沢、曽我、安田、藤元、蓬茨、訓覇、和田、竹中師等など、考えてみればこれらの先生方は徹底して宗務行政とは批判的に関わって下さいました。今はもうほとんどそんなことは期待できないと感じられる程です。これを真宗教学の矮小化と言わないでどう言えばいいのでしょうか。

まだそれで間に合っていると思っていることも問題なのですが、私たちは今真宗大谷派に求められていることに対して余りにも気楽過ぎるのではないでしょうか。 (一部略)

 

財務について ―宗門護持金制度―

(一部略)

ところで、その「財源に関する委員会」に関わった木全議員の報告によれば、この委員会の答申に新たに「宗門護持金制度」が提案されていると聞き及んでいます。この制度は同朋会員志の願いの再興と相続講精神の本来化を目指したものであると説明されています。今回の財務長演説では「財源に関する委員会」答申のこの宗門護持金制度については触れられていませんでしたが、それについてはいかがお考えでしょうか、お尋ねいたします。

杉浦前財務長の「教財一如」「法施財施」というご門徒の懇念を尊重した募財のあり方として、宗門護持金制度が提案された精神を引き継いで、例えばこのようなことも考えられるのではないでしょうか。

それは真宗同朋会運動の推進を基本に据え、先ず、その担い手である全国3万人の推進員の方々、そして各寺から選定してくださっている参議会の選出母体である組門徒会員、さらには寺門興隆の担い手でもある責任役員、総代の方々も巻き込んで、手始めにその様な方々から直に宗門護持金を純粋な懇志として率先して進納していただくという様な施策はいかがでしょうか。これら5万人程度の門徒役職者を当面の対象として、一人2.000円から5.000円程度の宗門護持金をお願いしていくということができれば、それは文字通り、「教財一如」ということを具体的に表現するということになるのではないでしょうか。

勝手な私見に過ぎませんが、院号、収骨に頼りがちな現在の相続講制度を見直していくきっかけになるのではないでしょうか。

勿論そんなことだけでなく、今後の財政基盤を確立するためにも、それぞれが様々な提案可能な様なシステムを考えられてはいかがでしょうか。後にも触れますが、これは真宗と経済という現代社会の課題でもあります。

課題別同朋会議の提起 ―対話・交流・対決―

 つづいて私は、宗祖750回御遠忌に向けて、どなたが内局を担当されていようと、すぐにでも出来る真宗同朋会運動の活性化を提案しておきたいと思います。(一部略)

 さて、教区、組においても同朋会議の開催ということが言われておるようですし、また、かつて中央同朋会議というものも何度も開かれています。その同朋会議はいわゆる宗門内での学習会の様なものであったり、時には、それぞれの体験発表会の様なものであったりした訳ですが、それを思い切って宗門内外に開くということです。具体的には、宗門の課題、日本の課題、世界の課題を宗門内外の人びととともに考える機会を、真宗大谷派の名前によって開くことです。つまり、親鸞の思想と現実との対話、交流、対決をすることです。言うまでもありませんが、このことは現代社会との接点を持つという同朋会運動15周年の時に出された基本課題でもあります。なるほど、教学研究所や親鸞仏教センターにおいて、その様な試みが為されているようにも見えますが、内容的には、お話を聞かせていただいているということに過ぎないのではないでしょうか。勿論、これにはこちら側の力量が問われていることは言うまでもありません。

こちら側の力量の不足は十分知った上で、それでも今、蛮勇を振るって対話、交流、対決をすべき時ではないでしょうか。そのことが出来れば、人類に捧げる教団として、宗門内外の人びとと共に勤める宗祖750回御遠忌が出来るのではないでしょうか。

 具体的には、その課題、テーマとして、真宗と政治、真宗と経済、真宗と教育、真宗と情報文化、真宗と人権、真宗と科学、真宗と医療、その他にもさまざまなことが考えられます。(一部略)

 いわゆる宗門外の人々も勿論ですが、寺に住む人々も、そして門信徒の中にも、それぞれの分野でスペシャリストがたくさんおられます。

そのほとんどの人々は自分のスペシャルな部分と親鸞の教えとが関わりがあるとはほとんど考えておられないでしょうし、又、そんなことに応えられるような真宗教学が今あるとも思えません。しかし、今それをしなければ、宗門が開かれるということはないと言ってもいいでしょう。

 今こそ、宗門の総力を挙げて、宗門を開き、日本の将来、世界の将来を開くために、宗門内外の人々を巻き込んで、課題別の同朋会議を立ち上げてはいかがでしょうか。(一部略) 

          

終わりに ―動けば動く真宗大谷派ー        

人間は本能的に誰でも自分を守ろうとします。生命に対する危険ということもそうでしょうが、現状を守る、自分の立場を守るということもそうであります。

 念仏者とは何か。親鸞聖人を宗祖として生きようとしている者の特徴(しるし)とは何か。宗祖はそのことを恩徳讃としてうたわれています。私たちはその気もないまま、気楽に唄っています。身を粉にしても、骨を砕きてもと。それは、自分を守ることとは全く対極的なことであります。

 私は質問を終わるに当たって、宗議会議員の皆さんに、そして宗務職員の皆さんに、又、真宗大谷派に関心を持ってくださる人々の全てに、もっといえば、あらゆる人々に呼びかけたいのです。「本当に私たちはこのままでいいのですか」と。意識して自分を守らなくても、本能的に自分を守ってしまうのが人間です。できるだけ、意識して自分を守らないように。守るときは必ず言い訳をしたり、自己弁護したりしてしまいます。それを悪いというつもりはありません。しかし、念仏者としてどうなのか。そのことを出処進退の基盤にしておきたいものだと考えます。

 自分自身を、宗門を、日本を、世界を、少しでもいい、一緒に変えたいものだと私は考えています。それには、私たちがそれぞれの場で、頑張るべきところで、少しだけ勇気を出して踏ん張ることではないでしょうか。「動けば動く人間回復への道」と言ったのは、ハンセン病元患者の伊奈教勝師ですが、「動けば動く真宗大谷派」「動けば動く日本、世界の状況」でもあるのではないでしょうか。

 我が真宗大谷派。やらねばならない事が山積しています。あまりにも、私たちは気楽すぎるのではないでしょうか。自己の立場を守ろうとするところから出される施策では、それに関わる宗務職員をはじめとする多くの方々に元気が出るはずがありません。

宗務総長、そして内局という自己の立場を守ろうとされない行政を心より期待します。

いきいきと御遠忌を! 建議案を提出

(本多一壽議員)

まもなく御遠忌をお迎えするにもかかわらず、昨年来、同朋を見失っているとしか思えない私たちの宗門の歩みに、いたたまれない思いをしておられた宗門内外の多くの方々の願いをうけとめたく、以下の建議案を発議いたしました。文言の折り合い等に相当な時間をさきましたが、与野党の賛成(与党に反対者少数あり)を得て、可決しました。

 これによって、宗門内外の人たちの衆知を集めて、御遠忌を生き生きとしたものにせねばなりません。

 どうぞ、世界・全国のあちこちで声をあげ、誰もが喜べる御遠忌をお勤めしようではありませんか!

 

「宗門内外の人々に、元気が出るような魅力的な宗祖親鸞聖人750回御遠忌を迎えるための建議」

 

私たちは2011年、つまり4年後には親鸞聖人750回御遠忌を迎えることになり、まさに、宗門は今、最終のお待ち受け期間に入っています。

数年前から、記念事業としての御影堂修復事業が進み、一昨年には御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」が発表され、その体勢が整えられつつあるようにも思われます。「宗祖親鸞聖人750回御遠忌専門委員会規程」等があるにもにもかかわらず、真宗大谷派宗門内外には、親鸞聖人750回御遠忌に向けた熱気、盛り上がりは感じられないといっていいのではないでしょうか。

それは、議会も含め宗務職員等、宗門に近いところほど、そのことを感じざるを得ないといってもいいと思われます。同時にそのことに対する危機感がその人たちの間に存在することも確かなことです。

しかし、その危機感を表現し、克服していくという方向性は見出せず、行政機関、立法機関である内局と議会には、よりその責任が問われていることはいうまでもありません。

私たちが議員として感じていることは、議員と僧侶を含む門信徒大衆との距離が遠いということです。それはまず何よりも私たち自身の責任であることはいうまでもありません。しかし、同時に現代という時代状況が作り出しているとも言えるでしょう。

宗祖750回御遠忌を目捷にして、宗門存立の意義、すなわち、真宗大谷派なる精神を明らかにすることこそが今、宗門内外から強く求められているのであります。

そこで、私たちは宗門内外の人々に、元気が出るような魅力的な宗祖750回御遠忌を迎えるための機関の設置を切に望むものであります。

その機関の中に公聴会等を開きながら、議会と宗務所職員を含む大谷派宗門内外を結び、共にその活性化を考えていくことを提案いたします。

2007612日         真宗大谷派宗議会

   

これでは御遠忌態勢が乱れます!                            (赤松範昭議員)

このたび「教区会の選出議員の任期に関する臨時措置条例案」及び「組長及び副組長の任期に関する臨時措置条例案」が内局より提案され、「特別委員会」に付託されました。

内容は、2008年の選挙で選ばれた教区会議員の任期を2010年の1223日、そして正副組長任期は2010年の1130日で満了させ、それぞれ翌日から新しい議員及び正副組長で御遠忌を迎えようというものです。御遠忌円成に向けて、教区や組の現場で準備を進め、いざ実行(本番)という段階での役職者の交代は決して望ましいことではありません。

 御遠忌業務増大の中では選挙の円滑な施行が困難である、つまり、事務が繁雑を極めるので選挙の時期をずらそうということですが、それならば、御遠忌円成後まで選挙時期を延長する措置を取るべきではないでしょうか。

役職者が代わるということは単にそこまでで留まることではありません。教区や組の教化委員会にも影響が出るでしょう。御遠忌に向かって諸々の準備をし、どのようなご縁として御遠忌をお迎えするのかといった学習を重ね、団体参拝の募集をし、遠隔地の場合は経費の積み立ても必要になるでしょう。そういった現場での事情を考えず、事務的にやりやすい方法ということでこれらの案は出されてきたとしか言いようがありません。

私たちは、やむなく選挙期間をずらすのならば、短縮するのではなく、むしろ延長して、つまり2008年に就任された役職者の方々には誠に申し訳ないことではありますが、御遠忌を円成させ、その総括まで務めていただくほうが責任の所在もはっきりするし、一連の流れをもって御遠忌をお勤めできるのでないかと考えるものです。また、御遠忌後の運動の展開にも繋がると思っております。 

 与党の中にもそのような問題が出てくるだろうと受け止めておられる方々もおられるようでしたが、結局内局には逆らえないのか、賛成にまわられたようで、残念ながら、これらの条例案は可決されました。

 

選挙条例の一部を改正する条例案

今議会においても、私たちは、住職の同意がなければ行使できない宗議会の被選挙資格を、無条件で有教師に開かれるよう、「宗議会議員選挙条例」の改正の議員発議案に賛成しました。

その理由はこれまでにも述べてきましたが、住職の同意を必要とすることは、独立者の誕生を使命とする宗門が自らの生き方を他人に委ねる、傍生を強いることとなり、きわめて非真宗的だからであります。

また、選びたいと思って立候補者を推薦しようとしても、住職が同意しなければ推薦できないこととなり、選挙人の選ぶ権利が侵されることとなります。

さらに、住職の同意権を認めることは、そのまま住職中心のあり方をさらに固めていくことにつながります。有教師を信頼し、住職中心の閉鎖的な宗門のあり方を克服していきたいのです。

なお、この条例案は与党による反対で、少数否決されました。

 

門徒戸数調査完全実施のための決議案

門徒戸数調査が完全に実施されるよう、本会議挙げて尽力することを強く表明し決議する旨の決議案が出されました。

この案件については、立法府にあるものが、自ら立法した条例の遂行に尽力することは当然であり、更に加えて、その遂行を決議することは、いかにも行政執行の怠慢を示すことにもなりかねません。

当会派ではそれぞれの判断に従って賛成・反対・退席の態度表明をしました。

なお、この決議案は可決されました。

 

本年度の予算について

予算総額 866千万円

 (前年度比 142百万円増)

 

2005年度の収納率が104%あったことと、事務の効率化と経費の抑制によって繰越金が増額したことによります。

本年は、教区割当基準見直しの最終年度に当たり、それぞれの教区においては、若干の増減が生じることでありますが、総額的に前年度と比べて大きな変化は見られません。また、御遠忌に向けて特筆すべき予算計上もありませんでした。

 

 

教師資格取得・通信教育制度の必要性

(福田元道議員)

 真宗王国と言われている北陸地方においても、宗教離れは予想より早いスピードで進行しております。特に若年層において、それが顕著であります。ことに当派の教勢は衰退の一途を辿っていると言わざるを得ません。こうした現状の中で、私は通信教育制度の導入設置を強く要望いたします。

 この制度については過去幾度となく議会で論議され、2004年には故栗原議員が通信教育の必要性を取り上げられました。しかし、当局は大谷派教師資格を通信教育という簡単な方法で取得出来るものであってはならない。各教区にすでに真宗学院が設置してあり、そこで受ければよい。との理由で棚上げ、拒んできました。

 私が通信教育導入設置を強く望むのは、さまざまな事情により就学困難な寺族の教師資格取得のためではなく、仏教・浄土真宗を少しでも学びたいと思っておられる一般門信徒の方々にとっても朗報となり、宗門にとっても大きな人の財産造りにつながるのではないかと思ったからです。

 通信教育で受講を強く望まれる方々は、むしろ意欲に燃えた方々であると思います。そして、その方々に門戸を開くことは「人の育成」「人の発掘」につながるのではないでしょうか。

 現に、本願寺派の通信教育は宗門における重要な教育機関として機能し、いまや一般門信徒にも場を開き、その卒業生は3万人を越える勢いで、本願寺派の宗門を支える大きな原動力となっていると聞いております。

 私の結論は、この制度を立ち上げるための大きな支障はないということです。あるとすれば、当局の後向きな姿勢だけであります。すみやかに通信制度の導入設置を望みます。

「念仏法難800年を考えるつどい」報告

                (旦保立子議員)

議会中の69()午後、浄土宗・西山系浄土宗・浄土真宗本願寺派・真宗大谷派の有志が呼びかけ人となって、「念仏法難800年を考えるつどい」が知恩院の和順会館で開催されました。

 シンポジウム「法難800年」を如何に捉えるかを、各宗派から、4人のパネラーがそれぞれの宗派における法難の受けとめを語られました。ただし、大谷派のパネラーである玉光順正氏は「私の語ることが大谷派の統一した見解ではないことを初めに申し添えます」として話されました。浄土宗では「朝恩」と法難を捉えていたことは興味深かったです。

 記念講演は「宗教と政治―相反する二つの精神」と題して、阿満利麿氏が「今こそ、社会に対して宗教の果たす役割は重要」としながら、「なんら、その役割を果たしていない」とし、現に「非暴力を提唱しているアウンサン・スーチーさんが自宅監禁を余儀なくされていることに、同じ日本の仏教者たちは声をあげていない」と、叱咤されました。また、「念仏をする」ということは報恩謝徳のみならず、阿弥陀仏の事業に自分が参加するということであり、念仏に根拠をおいた動きをすることだと話されました。以前、阿満さんは信念に基づいた動きは政治的圧力がかかるものだと言われました。こういうことが、本当の自己を問うということなのではないかと思いました。

 その後、知恩院から、死罪に会った安樂・住蓮の墓所・安楽寺まで100余人が列を組み、南無阿弥陀仏の幟のもと、時に豪雨に見舞われながらも、念仏を唱えながら行脚をしました。安楽寺では念仏を中心にした声明が東山に響き、まさに弾圧への悲しみと怒りが参加者の胸に伝わり、いよいよ、仏教者としてこれからの歩みが問われることとなりました。

 

 

宗門はいずこへ向かって歩もうとするのか。

最近の宗政上の問題点として、

@教師に宗議会議員の被選挙権を付与するについて、住職・教会主管者の同意を得なければならないという極めて不条理な問題

A玉光教研所長人事に対する人事権の乱用問題

B長久寺参務の役職詐称問題

C教区会議員・組長・副組長の任期短縮の問題

D当局主導の恣意的委員起用の各種委員会編成とその委員会への課題の丸投げ姿勢

E教化センター構想に伴う、本来の教学研究所や解放運動推進本部の独立性喪失と御用教学化

F宗務職員の職場環境整備(雇用形態や各種ハラスメント対策)の遅れ

等に見られるように、宗門は中央集権化、ファッショ化の傾向を強めていることが危惧されてなりません。

宗門の求心力は単なる権力支配の強化によって得られるものではありません。それはどこまでも、同朋会運動の願いが教学によって実践的に顕かにされていくところにこそ、おのずから生まれてくるものでありましょう。

皆様のご意見を是非お聞かせください。

大澤秀麿(北海道)旦保立子(東京)福田元道(高岡)能邨英士(小松)木全和博(名古屋)三浦 崇(三重)赤松範昭(京都)本多一(大阪)玉光順正(山陽)

大城雅史(久留米)

真宗大谷派宗議会 「宗門を開く会」

代 表 三浦 崇

事務所 〒454-0964

      名古屋市中川区戸田2-1106

宝泉寺内  2007622日 発行